撮影現場ダイアリー
中江組「演技の本質=それしかない空間」 [2006.06.09]
一昨日の夜、主演の男の子の単独リハを行いました。
ようやく演出部が全員、石垣入りをしたので、彼らにも参加してもらいました。
皆で擬似家族のように晩餐会をして、腹ごなしをした後、いよいよ稽古です。
肩慣らしに、演出部劇団(演じ手は二人(笑い))とCASTのエチュードです。
エチュードって言うのは、即興劇で、簡単な設定を与えて、その役で各々演ずるものです。
くじ引きで役を引かせて、3人でそれぞれ、先生、女の子、ヤンキーをやってもらいました。
そんな設定ですが、無論コントではないです(笑い)
その中に、怒り、喜び、悲しみを演じ分けられるように多少の設定変えや指示を与えながら。
その後、鬼ごっこ的、感情の使い分けゲームなんぞやったりして、みんなすっかり汗だくになりました。
息の上がった劇団にはさよならして、助走は終わりです。
CASTにひとりエチュードをやってもらいました。
目の前に大切な人がいると仮定して、独白してもらう。
一見簡単だけど、難しいお芝居を。
小さな奇跡が起こりました。
彼にとっても初めての出来事だったでしょう。
芝居とリアルの垣根がなくなってしまったのです。
この映画で初めて芝居と出会って、試行錯誤で演じるということを掴もうとしてきた彼が、人目を気にせず、素の自分を、さらに自分の内面を表現としてありのまま、あらわす事ができてしまいました。
僕も正直、予想を超えた集中力でした。
「演技の本質をつかんだな」と思いました。
技術的な演技の方法論は数あれど、また表現媒体のタッチによって数限りなくあれど、演ずるということは、空々しくない、その場での生き方の問題であるともいえます。
リアルと自然体ともまた微妙に違いますが、表現においての演ずるということとは、感情の凝縮でもあるのです。
「ことを起こしてゆく」
「対して、反応してゆく。能動してゆく」
「それしかない空間」の中で、細やかな感情の機微を、演ずる=確かに感じる、ことができれば、表情は偽りなく変化し続け、それは全身に現れます。
一言一言に対しての刹那な反応が、演技使用とするより先に、現れてしまう。
自己同一性との一致です。
彼は、それを知ってしまいました。
さらに役柄との距離感をつめていければ、彼は登場人物として生きることができるでしょう。
価値ある、夜でした。